Urban. 88

映画『Perfect Days』を見て




20代のあいだ、多くの場所を旅してきた。飛行機に乗る機会がとても多かった。そんな中、ファーストクラスをも上回るほど、快適な空の旅をおくっている人々の存在に気づいた。それは、飛行機で熟睡できる人たち。彼らは10時間を超える長旅であっても、どのクラスの席に座っていても、一瞬で目的地に到着できる。夢の様な才能だ。僕は彼らを、「特権階級(クラス)」と名付けた。



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20時間以上飛行機に乗って行った
イグアスの滝



飛行機だけでなく社会の中にも、残念ながら、階級の概念は存在している。例えば、富裕層、中間層、下流層みたいな階級。収入や学歴、勤務先はおろか、職種にさえ、優劣をつけたがる偏重がある。

20代の終わりにもなると、自分と同じ環境で育った友人の収入さえ、大きくばらつき始める。同じように東大で学び、似たような能力を持った人の間にも、自分が知っているだけで最大20倍くらいの差があるから、実際にはもっと大きいだろう。稼ごうと思えばもっと稼げるだろう友人たちの、それでも今の仕事に対するひたむきさと熱量を見て、あることに気づいた。

飛行機だけでなく社会にも、ファーストクラスを凌ぐ隠れた特権階級が存在するんだ。収入という意味でのエコノミー、ビジネス、ファースト、どの席に座っているかに関わらず存在する特権階級、それは「自分の仕事を好きでいられる人たち」なんだろう。

色んな国を訪れ、色んな職種の人たちと関わってきたが、案外そういう人たちは少ないかもしれない。



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大好きだった
ベルリンの職場の自分の席



映画『Perfect Days』を見ていて、それを再認識した。この映画は、渋谷でトイレの清掃員として働く平山(役所広司)がおくる日常の繰り返しと、その中で他者との関わりによって生じる些細な変化の美しさを描いた作品だった。

※以降、ネタバレあり※

毎日ひたむきに完璧なトイレ掃除をする平山と、どうせきれいにしてもすぐ汚れるからとテキトーに掃除するタカシ。どちらのこともよーく理解できる。僕だったらタカシみたいに掃除するかもしれない。彼らの対比を見ていて思った。「平山って特権階級の人だ。」

平山が清掃員の仕事を好きかどうかは分からない。けれど、少なくともその仕事を自分の意思で選択し、その仕事を取り巻く日常の幸せをしっかり享受している。自分にとっての豊かさを理解し、それを大切にする彼の日常は、とても美しく思えた。

ある日、平山のもとに、妹の娘ニコが家出をして訪ねてくる。おそらく平山の実家や、その娘である妹の家庭は、いわゆる「ファーストクラス」なんだろう。そんな環境に苦しくなって平山のもとに家出してくるニコを、なぜだか可哀想に思ってしまった。羨ましいくらい恵まれているはずなのに。

だからだろうか、数日後、平山の住むボロアパートに、運転手付きの高級車に乗ったニコの母親(つまり、平山の妹)が、ニコを迎えにくるのだが、彼女のことを好きになれなかった。彼女は「本当にトイレ掃除をやっているの?」と平山に問いかけた。

2人の「持ち物」の対比を見れば、あたかもこのシーンが、エコノミークラスとファーストクラスの対比のように見えてしまう。でも、僕の目に映った対比は、真逆だった。

特権階級の平山と、特権階級の存在にすら気づいていないただのファーストクラスのニコの母親。その傍らに佇むニコの純朴さが、経済的な豊かさと人生の豊かさが必ずしもイコールでない事実を静かに主張しているように思えた。

でもどうすれば、平山に学んで、日々の生活を本当に心が満たされるものにすることができるんだろうか?

自分にとっての幸せとは何かと、今一度自分に問うてみることだろうか?ありふれた小さな幸せを意識したり、当たり前の日常に感謝することだろうか?もちろんそれが、個々人にできることかもしれない。

一方で、そうはいっても、それはなかなか難しくて、誰もが皆、そんなことができる状況ではないのも現実だと思う。

じゃあ、みんなでできることはないんだろうか?

結論、「ある」。それが豊かな公共性を作ることだと思う。

(次回に続く)



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東京一豊かな公共空間
東京大学本郷キャンパス