ジベタリアン都市ベルリン
執筆:2024年3月17日
ベルリンの街は、至るところに座れる。気の向くままに腰をおろし、飲み物を片手に友人と過ごすひと時が、最っ高の幸せだった。過去でも未来でもなく、まさに「いま」を生きているあの心地が、ベルリン生活で経験し得る最高級の贅沢だった。それに必要なのは、せいぜい数ユーロ程度の小銭。そして多様な人との出会いだった。
親友たちとの
コーヒーブレーク
ベルリンで大好きだった場所。それは、ノイケルン地区を流れる運河沿いの草むら。曜日や時間帯によって、静かだったり爆音が流れていたり。ここに寝転がって、よくビールを飲んでいたなあ。多くの人と色んな時間を過ごしたこの場所に想いを馳せると、あの瞬間のかけがえなさに心が奪われる。
これから夏を迎える運河沿い
ランドヴェーカナルの新緑
そして、郊外の湖クルメランケの湖畔。ここは、四方を森に囲まれた湖で、水の透明度がとても高い。泳いでいると自然をすごく近くに感じる。東岸は開けていて、ビーチのように日光浴をしながら浅瀬で楽しむ子供連れが多めの印象。
日差しが最高な
クルメランケ東岸
一方西側はもう少しプライベート感が強くて、裸で読書したり泳いだりして、ゆっくり過ごす人も多い。その横で、音楽を流してパーティーしている若者の活気もあったりもして、多種多様。
隠れ家感が強めな
クルメランケ西岸
夏のベルリンで、こういった公共の屋外空間以上に魅力を発する場所は、存在しない。それくらい、強烈に美しい。自分にとって特別な場所。いくらお金を積んで贅沢しようと思っても、ここで過ごせる時間以上の贅沢は、きっとできない。そんな場所。
一見ありふれた場所なのにそう信じられることこそが、僕がこの街に愛着を感じながら住んでいた証左なのかもしれない。
バーやクラブ、ギャラリーなど、ベルリンには他にも世界有数の質を誇るシーンが沢山ある。どれも本当に素晴らしい。でも、上に挙げた屋外空間こそが特別だった。そこでは、みんなが思い思いに自分のしたいことをしていた。楽器演奏、スポーツ、パーティー、馬鹿騒ぎ、(もっとやばいことも色々)。その混沌こそが「真に豊かな公共空間」という奇跡の源だった。
夏のベルリン午後8時半
仕事終わりに親友と
誰でもいつでもどんなに長くても、タダで居座れる公共空間。しかも気楽。そんな場所が、(清潔という意味ではなく、心惹かれるという意味で、)ベルリンで最も美しかった。
「贅沢」とは裕福な人の特権ではなく、万人が享受すべき権利なんだと、ベルリンの公共空間は教えてくれる。
そんな経験をすると、税金は、人々の暮らしの必要最低限を保証するものに終わってはいけないんだと気づく。冨の多寡に関わらず、万人に対して贅沢の機会を提供する為にこそ使われるべきだろう。限りある予算で効率的にそれを叶える具体的な方法を、みんなで考えないといけない。
その第一歩は、既に存在するその贅沢さを身をもって体験することだと思う。だから、ぜひ夏のベルリンに行ってみて欲しい。
あちこちに広場がある街、ベルリン
僕がベルリンに暮らして気づいた公共の贅沢、それは身近に「自由な場所」があるということ。そういう場所に人が集まると、究極の豊かさが発現する。そういう場は、公共の力でしか叶えられない。
みんなにとっての贅沢の形は多種多様だろう。それを受け入れる大きな器が「自由な場所」。自分なりの贅沢を気ままに楽しめる場所が、タダで身近に存在する贅沢。税金で運用する公共空間が目指すべき姿は、そういう場所だと思う。
そんな空間が傍にあれば、『Perfect Days』の平山が大切にしていたような「私にとっての豊かさ」に気づけるチャンスが、みんなにとって増えるだろう。それこそが、本当に心が満たされた日々の生活を実現するために、全員で協力して向かうべき方向性だ。(前回からの結論)
この文章を書きながら、ヴィム・ヴェンダースさん(『Perfect Days』の監督)は、ベルリン在住だと知った。なぜかこの事実が、胸にストンと落ちた。彼の目に映るベルリンと東京の人々の生活は、一体どんなものだろうか。
そんなことを考えながら東京を歩いていると、富士山が見えた。誰もがタダで歩ける「公共の」この坂から望む富士山は、本当に美しい。
富士山を望む
東京の坂